土俵上で倒れた市長を救助していた女性に降りるようアナウンス←海外から女性蔑視と非難の声
どうも千日です。しきたりより人命の方が重要であって、この女性が瞬間的に土俵に上がって救助したことは誇れることです。それを行司が止めることはおかしいと、ほとんどの人が思ったんですよね。
なので、
- 日本の女性(看護師)は凄い。
- 行司は空気読めよ。
というのが、この事件のエッセンスだと思うんです。でもなぜか、土俵上が女人禁制であることをニューヨークタイムズを始めとした世界のメディアから批判されてるみたいなんです。
私なんかは、だからどうした?と思うんですよね。
土俵というのは、早い話が土を固めて作った6.7メートル四方の人工の盛土ですよ。 その上に女性を上げないことが女性に対する権利の侵害だと、マジで言ってるんでしょうか。
世界の主要メディアが報じた「女人禁制」の差別的慣習
ニューヨーク・タイムズ電子版は「男性の命救うためでも女性の土俵入り禁止」の見出しで報道し、スイスの「世界経済フォーラム」の2017年版「男女格差報告」で日本は144カ国中114位であることを引き合いに、舞鶴市の出来事が「日本でどのように女性が扱われているかを物語った」と批判しました。
ワシントン・ポスト紙電子版は、土俵から下りるようアナウンスされたのはこのスポーツで女性は儀式上、不浄と見なされているからであると指摘し「あらゆる場面で日本の女性は差別や障害に直面している」と伝えています。
英BBC放送電子版も、相撲協会を批判する日本のツイッター利用者の声を交えて報道し、土俵に塩をまいたという話にも触れて、「日本文化では塩は土俵を清めるために使われる」と説明し「これが命を救おうとした人への対応か。相撲協会にこそ塩をまくべきだ」などの日本のツイッター上での批判の声を紹介しています。
女人禁制は合理的ではないが女性の権利を侵害していない
過去にも滋賀県知事の太田房代知事が土俵に上がりたいと言って、物議を醸したことがありました。
つまり、土俵に上がれなくて問題となったケースは、巡業の地域の首長が女性であったケースで、さらに彼女が土俵に上がることを要求したケースだけです。
オンナだからという理由だけで、市長の挨拶で土俵に上がれない事に憤りを感じた、ということです。
大前提として、大相撲の女人禁制に合理性なんてありません。みんなそう思っています。
相撲協会も『女人禁制が合理的だから』なんて言ってませんよ、言い分としては『女人禁制がしきたりだから』です。
女人禁制の伝統は明治以降の相撲界が創ったイメージ戦略
つまり、『ウチでは昔からそういう事でやらせてもらってマス、オスごっちゃんでっす』というだけの世界なのです。
ちなみににどの程度の昔からかというと、同じブログサービスでブログを書いているid:browncapuchinさんが書いてくれてます。
元ネタである論文Hokkaido University of Education Repository: 相撲における「女人禁制の伝統」についてによると、女人禁制の「伝統」は明治以降の相撲界による虚構であるというのが本当のところらしいですね。論文は以下の文章で締めくくられています。
神道が持つ女性に対する穢れ思想と,これにもとづく女人禁制というものが全面に出てきて,相撲に大きな影響を与えたということについては,それほど古い歴史があるようには思えない.相撲と神道との関わりは古くからのまさしく「伝統」であるが,「相撲は神道との関わりがあるから女性を排除する」というような論理は,明治以降に相撲界の企図によって虚構されたものであると考えられるのである.(pp.85-86)
概ね大学の体育会のしきたりと同程度の感じですね。
私の所属していた体育会空手部にも当時女人禁制の掟がありました。
過去「バンカラ」がもてはやされた時代の遺物です。それがカッコいい、イカしてる、というイメージが当時はあったからです。
バンカラ(蛮殻、蛮カラ)とは、ハイカラ(西洋風の身なりや生活様式)をもじった語で、明治期に粗野や野蛮をハイカラに対するアンチテーゼとして創出されたものです。一般的には言動などが荒々しいさま、またあえてそのように振る舞う人をいいます。
いま、バンカラで変換すると「晩から」が一番に来てカタカナのバンカラは最後です。もう死語なんでしょう。
つまり、興行を生業とする相撲協会の「女人禁制」もまた、そうした当時のバンカライメージ戦略によるものだというのが本当のところではないでしょうか。
女性差別だと叫ぶ人たちの思惑
女人禁制は相撲興行に客を呼ぶためのイメージ戦略であるとすれば、土俵に上げろと騒いでる人たちは、どんな意図でシュプレヒコールを上げているのか?
自分は市長なのに、市の協力で開催される相撲興行で首長に相応しい扱いをしてもらえてない。
という事を問題視しているように思うんです。早い話が公人としてではなく私人としてのチンケな面子、プライドの問題じゃないの?と思うんですよね。アホらしい。
繰り返しますが、彼女たちが『上がれないのは差別』と言ってるのは、ただの人工の盛り土ですよ。そこで勝負する力士達以外にとっては、それ以上でもそれ以下でもない。
こういう話を聞くと、いつも思い出すのが領土問題です。
こんなキャッチフレーズがありました。
独島は我が領土
しかし、あんな絶海の孤島の領土に利用価値なんてあるワケ無いですよね。欲しいのは島じゃなくて海洋資産、地政学的メリットです。言わないだけでみんなが分かっています。
例えば日本が『島だけは日本の領土だけど、周辺海域のあらゆる権利はそっちにあげるヨ』と言えば、『あっそう独島イラネ』となります。
まあ言わないんですけど。
土俵の問題では、相撲協会はしきたりさえ守られれば良いのです。さっきの例で言うと『島だけは日本ということでお願いします』というような立場なんです。
なので、もしも女性側が『土俵』というものにこだわりさえしなければ、何の問題も起こらないはずなんですよ。
一部のフェミニストがたきつける対立
今までが実際そうだったんだと思うんですよね。だって考えてもみて下さいよ。別に相撲に命を賭けてない人にとって、土俵はタダの人工の土の山ですよ。しかも『土足厳禁って(笑)』なんです。
今までだって
『女人禁制なのでごめんなさい』
と言われて、
『あっそう、ふうん、まあ別に良いけど』
で済んでたんです。
土俵に上がったところでしょうがないですからね。 しかし、女性の社会進出が進むにつれて、首長になる女性側も多様化してきたという事でしょう。
また、この対立関係はある種のフェミニストたちにとってはメシの種でもあるのです。
一部のフェミニストにとっては土俵こそが領土であり、土俵に拘ることに直接的な利益があるんですよ。『女性が排除されている領域』こそが、女性の社会進出を妨げているものだという主義主張をアピールする宣伝材料になるんです。
フェミニストにとっては男女間の対立が起こるとそれを起点に存在価値をアピール出来るし、金儲けもはかどります。このビジネスの原型は武器商人です。戦争を起こして双方に武器を売るやり方です。
しかし、戦争はイヤですよね。そこで発明されたのが、こうした社会の中でのグループ間の対立をプロデュースすることなのです。
戦争ほどのデメリットではありませんが、社会の人々が仲良くして共存することではなく、対立を作ることは社会にメリットがありません。しかし、関連消費、関連投資が増えて、特定の業界や個人にカネが入るのです。
なので、こうしたことに加担するのもどうかと思うんですよ。こういう話題を書くと必ずわいてくるのが、さらに対立を煽るかのようなコメントです。つまり、冒頭で紹介した世界の一流メディアの電子版がこれをやってる。
大相撲の「女人禁制」に世界がNO?←ほっといてくれ
この土俵問題で世界から批判が集中していると報道されてますよね。相撲協会は格好の的にされてます。 八角理事長は、こうした袋だたきの『暴力』に負けないで欲しいですね。
彼らは物理攻撃の達人ですが、こうした文化系の精神攻撃には免疫が無いかもしれないので、そこが心配ですね。
女人禁制を支持してるんじゃないよ念のため
誤解の無いように言っておきますけと、私は土俵の女人禁制を支持しているワケではありません。
合理性は無いし、守るに値するものでは無いと思ってます。ただの変なしきたり、日本人という少数民族による奇習です。
しかし、そういうしきたりを続ける権利があります。昔からクジラやイルカを食べてた人たちが今後も食べる権利があるのと同じようにね。
ましてや、この対象となっている土俵は相撲協会の名の下に作る構築物であり、すなわち相撲協会の所有物ですよ。
その所有物を一見合理的でないルールであっても、自分達で決めたルールで運用する権利が相撲協会にはあるのです。
気に入らないんですよね、それを外からとやかく言う人たちを、私は生理的に受け付けないのです。がんばれ八角理事長。
ニューヨーク・タイムズなんて『フジヤーマ、ゲイシャガール、クールジャパーン』とかテキトーに言ってりゃ良いんだよ。うっせーな、だまってろよ。
まとめ
私も大学で体育会の空手道部に所属していた時代がありました。
当時の空手道部はなんとなく女人禁制で女子部員の入部は認めてませんでした。 明治までは遡りませんが、伝統だったんですね。
しかしもう、そういう空手バカ一代的なノリが流行らない時代でしたので、部員はドンドン減って行きまして。私の代でたった4人、その下は3人…ヤバイですよね。
私がそういう事を決められる3年生になってから、創部以来タブーとされてきた女子部員を初めて入部させました。
しきたりというのは、時代の流れにあって変化していくものです。組織の存続と天秤にかけながら、変わるべきなら、内部から自然に変わって行くものだと思いますよ。外野は黙っときましょうよ。
以上、千日のブログでした。
《あとがき》
今回の事件ってしきたりを破っても人命救助を優先させた女性ってことが称賛に繋がるんですよね。これが「人命救助だから上がってもOKなので救助しました」みたいなことになると興ざめじゃないでしょうか。
それと「女性は降りて」とアナウンスした行司は空気読めよってことです。
土俵に上がれなくても、ごくごく一部の「土俵への拘り」が強い女性以外は誰も困らないです。相撲と何の関わりもないニューヨーク・タイムズまで持ち出して女性蔑視だと煽るのは止めてもらいたいものだと思います。
上がりたければ上がればいいんでしょうけど、そこまでして上がりたいところなんですかね?
良いよ上がって上がってと言われたら、こんどは足の裏が汚れるからヤダナ…みたいな感じになるような気がします。
2018年4月8日
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