「子ども」のような「おとな」=大きなお友達
『大きいお友達』『大きなお友達』『おっきなお友達』『大友』などなど様々な呼称がありますがWikipediaによると主として子供を対象とする嗜好物に夢中になる大人を指すらしいです。
多くは、自分が大きなお友達ではないと思っている大人及び子供が、そのような大人を蔑む際に使用します。 自分が大きなお友達だと自覚している大人が、自らに対し自虐的に使用することもあるようです。
子ども向けのイベントで子供を押し退けて前に出たり、子供を恫喝したりといった問題行動を取る大人への批判を込めた呼び名としても使われます。
しかし、ただ子供を対象とするアニメやおもちゃが好きというだけで、その人にレッテル貼りをすることには賛同出来ません。
そのようなレッテル貼りは「自分はちゃんとした大人だ」という自覚の元にやってることだと思いますが、その自覚に揺るぎは無いのでしょうか?
以下は、私の頭の中で繰り広げられた思考を会話形式にまとめたものです。
バカというものがバカだ、というメタメッセージ
私A「大きなお友達をネタに選ぶということは、こいつは自分が『大きなお友達』じゃないと思っているようだな」
私B「多分バカなんだろう」
私C「バカという者がバカだって『内田樹』(うちだたつる)先生も言ってたよ」
私AB「誰だそりゃ?」
私C「神戸女学院大学の先生だよ」
私B「お前はいつから女子大生になった?さては女子大の教室に…お巡りさんコイツです」
私A「ケーサツ沙汰だけは御免だぞ」
私C「30歳位の頃に著書を読んで、その後の考え方に影響を受けたんだよ。だから先生って言ってもいいでしょ」
私B「その先生は肝心な所に気づいてないな、バカという者がバカと言ったらそいつもバカだろう」
自分の背中は自分では見えない
私C「それはメタメッセージだからいいんだよ」
私AB「何それ?」
私C「つまり、自分の背中は誰にも見えないんだよってこと」
私B「わからん、もっと噛み砕いて言ってみろ」
私C「お前はバカか?」
私B「ブッコロス!!」
私A「まあまあ、当たらずとも遠からず」
私C「そうじゃない、例えば今のはよく侮蔑の言葉として使われるけど、質問として捉えると答えは?」
私A「『はいそうです』か『ブッコロス』(いいえちがいます)だな」
私C「回答者が仮に『バカ』だとしたら、どちらの答えでも信用出来ないね。バカか?という質問に意味は無い」
私B「そもそも『お前はバカか?』という言葉は、質問を目的として発せられるもんじゃないだろ」
私C「ゴメン話が脇道に逸れたね。『お前はバカか?』という言葉は『自分はバカじゃない』という前提で発せられるんだ」
私B「そりゃそうだ、客観的にバカじゃないことは分かってるからな」
私C「しかし、バカに客観視ができる?自分はバカじゃないってのは、『自分に対する主観』なんだよ」
私B「やっぱりブッコロス!」
私A「まあまあ、当たらずとも遠からず」
厳密に自分を客観視することは出来ないことを知る人
私C「そうじゃない、誰もが客観視している自分は、『自分に対する主観』なんだ」
私B「でも、周りの誰も俺のことをバカにしないぞ、妻を除いてはな」
私C「それは全部周りの人の主観、妻の主観なんだ。それにバカにされてないというのも自分の主観だね」
私A「なるほどね、『お前はバカか?』という侮蔑の言葉は、自分がバカではないという前提で発せられるが、そもそも自分がバカじゃないことを自分で知る術はない」
私C「『大きなお友達』という言葉からは同んなじような臭いがしないかい?」
私B「わからん、もっと噛み砕いて言ってみろ」
私C「お前はバカか?」
私B「ブッコロス!」
私A「まあまあ、当たらずとも遠からず」
「大人」になるというのは、軽々しく他人を子供だとか大きなお友達だとか言わない人間になることなのかなと、今の千日は考えています。
ひょっとしたら考えは変わるかもしれませんが。今のところの私の結論です。
以上、千日のブログでした。
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